種松山西明院 外観全景 写真
種松山西明院 ロゴ

西明院について

西明院について

残っている資料

残っている資料

度々の移転や天災等の為、資料があまり残っておりませんが、以下の文書が残されています。

吉備路の入り口児島の粒江という里に西明院という精舎がある。平城天皇の御代(在位:延暦25年~大同4年、西暦806~809年)、弘法大師が諸国遊歴の折ここで虚空蔵求聞持法を修しようと造立した。修法の間様々な感応があり、海原の波の上に明星の影が見えたため海光山と称し修法が終わった後自ら不動尊を彫刻して本尊とし明王寺と呼ばれたが、いつの頃からかは不明ながら本尊は一字金輪仏頂尊となった。-後略-

『岡山県児島郡史』にみる由緒と所在地の変遷

『岡山県児島郡史』にみる由緒と所在地の変遷

大正4年に岡山県児島郡役所から発行された『岡山県児島郡史』より

当山は弘法大師の開基にして、昔海中に不動明王の尊像ありて海上に光を放つ故に山号を海光山と称し、寺号を不動明王に依り明王寺という、寺の西に當りて光を放つを見により西明院と号す、明治6年寺を現在の種松山上に移し種松山と改める。

などの記述から、開基後に現在の倉敷市立粒江幼稚園の場所に移り、種松山山上と麓近辺を往復の後、明治6年(1873年)に種松山山上に移って山号が変えられたようです

明治36年(1903年)に祖師堂と龍王堂が倒れ、里村まで距離が遠いことから大正13年(1924年)先陣庵がある先陣山の麓へと移転しました。下は移転当時の記念写真です。

種松山西明院 移転当時の記念写真種松山西明院 移転当時の記念写真種松山西明院 移転当時の記念写真
種松山西明院 移転当時の記念写真

西明院ご本尊について

西明院ご本尊について

開基は約1200年前、正式には種松山明王寺西明院 真言宗善通寺派の寺院です。弘法大師が真言密教を唐で学び帰国された大同年間(806~810年)といわれ、ご本尊は一字金輪仏頂尊で、秘仏となっております。全国的に一字金輪仏をご本尊とする寺院は少なく、また仏画ではなく仏像のお姿も珍しいといわれています。

西明院ご本尊について 写真西明院ご本尊について 写真
西明院ご本尊について 写真

金毘羅大権現勧進について

金毘羅大権現勧進について

金毘羅大権現勧進のきっかけ

金毘羅大権現勧進のきっかけ

江戸時代末期の天保年間(1831~45年)、当時西明院住職だった三等上人が金毘羅大権現を勧請しました。その頃親しかった吉塔寺住職や国分寺(現総社市)住職と共に何か後世に遺るものをと話し合い、児島八十八ヶ所霊場、五重の塔再建、金毘羅大権現勧請を発願して見事に満願成就したものです。大正4年発刊の
『岡山県児島郡史』には

山上に一宇あり種松山の鎮守にして阿遮羅明王を祭る、寛政年間西明院住職三等上人の創建にして領主池田政高・政孝の二卿深く崇信せられ後政徳卿また崇敬篤く、神号の額及び水幕等を寄進せらる、毎年10月10日大般若経修行す、明治初年までは1月3月10月の祭日には領主池田家より代参ありしという。

と記されており、文中の「山上に一宇あり種松山の鎮守にして阿遮羅明王を祭る」というのが現在の金毘羅大権現です。

明治維新の廃仏毀釈とその後の移転

明治維新の廃仏毀釈とその後の移転

ご本尊と金毘羅大権現を共に祀っていましたが、明治維新に伴う神仏分離・廃仏毀釈で池田家の代参もなくなったと思われます。

その後、昭和9年に地元や信者の方々により現在の場所に下ろされてきました。左は昭和9年の正御影供(弘法大師が入定され旧暦3月21日に営まれる法要)に撮られた写真です。金毘羅大権現の開眼も兼ねていたようです。写っているのは児島北結衆のご住職方で、庭幡の後ろに本堂と拝殿をむすぶ回廊が写っています。

同じ時に撮られた右写真の前中央には、リヤカーに載せられたご神体だろうと思われます。右上には余興のための舞台が組まれ、縁の下に積み上げられた箱は古い大般若経でしょう。お稚児さんは足をそろえてお行儀がよく、当時の風俗がうかがわれます。

種松山西明院 正御影供に撮られた写真種松山西明院 正御影供に撮られた写真
種松山西明院 正御影供に撮られた写真

史跡先陣庵について

史跡先陣庵について

源平藤戸合戦

源平藤戸合戦

約800年前の寿永3年(1184年)、源平の戦いの藤戸合戦がありました。海に隔てられて、馬では渡って来られまいと思い込んでいた平家軍に対し、源氏の武将佐々木盛綱は地元の浦の男から平家の陣地まで馬で渡れる浅瀬を聞き出しました。しかし、情報が漏れることを恐れた盛綱はその男を斬り捨ててしまいます。

翌朝盛綱は聞き出していた浅瀬を渡り先陣庵が建つ場所に上陸、これに続いた源氏軍は激戦の末平家軍を破り、盛綱は先陣の功を称えられました。後日再び盛綱がこの地に入った折、浅瀬の在処を教えて貰いながら斬り捨てた浦の男や双方の戦死者を弔って建立した先陣寺が、時の流れで庵になりました。御本尊の阿弥陀如来像は、北条時賴が諸国行脚の折に納めたとも言われます。

十一面観音像と鐘楼堂の彫刻

十一面観音像と鐘楼堂の彫刻

庵の傍らには嘉永七年(1854年)と刻まれた十一面観音像が建立されています。嘉永七年は日本各地で地震が頻発した頃で、もしかするとそういったことがあって建立されたのかもしれません。鐘楼堂の上部四面には、敵陣を目指し浅瀬を渡る佐々木盛綱、浅瀬の在処を示す浦の男、源平の軍旗と佐々木の家紋が入った陣幕、波に洗われる浮洲岩の彫刻が見られます。

種松山西明院 史跡先陣庵について 写真種松山西明院 史跡先陣庵について 写真種松山西明院 史跡先陣庵について 写真
種松山西明院 史跡先陣庵について 写真

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